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集団就職の季節になりました。秋田地方で夜行列車だった 急行津軽2号を知らない人はいないでしょう。
典型的な集団就職の形態として、農家の次男以降の子が、中学校や高校を卒業した直後に、主要都市の工場や商店などに就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名でした。一説には1955年(昭和30年)から始まったとされ、東北からは上野駅までの就職列車が運行された。これには異説もあり、当時の労働省の指導で「集団就職列車」の名称の列車が運行された時期の起点である1963年(昭和38年)を起点と見ることもでき、逆に実態としては1954年(昭和29年)以前からそうした列車が運行されていたとする説もある集団就職列車は1954年(昭和29年)4月5日15時33分青森発上野行き臨時夜行列車から運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が最も多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』がその情景を表しているとして有名である。上野駅などでは、中小企業経営者が駅に迎えに行き、就職者は就職先ごとにグループ分けされた。九州や沖縄県などの離島からは貨客船(フェリー)が運行された。
集団就職は、地方公共団体などが深く関わって行われており、集団就職列車には、そうした組織の職員が同乗していることもよくあった。秋田県では県職業安定課や各地の職業安定所の職員が列車に同乗していた。また1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)までは、毎年5月の連休前後に東京の日本青年館で関東地方に就職した集団就職者を対象とした激励大会を催し、県知事が出向いて挨拶するなどしていたようです。金の卵(きんのたまご)
日本の高度経済成長を支えた若年(中卒)労働者のことをいう。1948年(昭和23年)に新制中学が誕生した際に小学校卒業までであった義務教育の期間が中学校卒業までの9年間に延長された。この学制改革を契機に、戦後の「金の卵たる中卒者」が誕生した。戦前の高等小学校(基本は2年制)が1948年に新制中学として義務教育化されたことで、中学卒業後すぐに社会に出る若者が生まれ、彼らが金の卵と呼ばれた。後には、「ダイヤモンド」、「月の石」などとも言われたとされる。
高度経済成長を支えた「金の卵」であったが、学力が高いにもかかわらず家庭の経済的理由で全日制高校進学が困難となった若者も多く、公立中学校卒業後に企業で働きながら定時制高校・通信制高校に進学することも多かった。さらに大学の夜間学部・通信教育部に進学するものもいたが、逆に仕事はあくまでも単純労働であったことと、仕事と学業の両立が難しいことから、定時制高校のみならず、仕事も(15 - 22%の高確率で)やめるものもいた[14]。中卒・高卒の男女は大卒と比べ給与が低く、社宅など福利厚生の面でも大きな差があった。
1964年(昭和39年)に「金の卵」の言葉が流行語となった。
本日突然
市役所から2回目の給付金の申請書が届きました。18歳以下の子供もいないのに⁉️なんでだろうと考えてみました。しかし立派な理由がありました。ムツチ--は身体障害者でありました。20万円大切に使わせてもらいます。
2024年に20年ぶりに刷新されることになった、新紙幣。
新しいお札では、千円札に「北里柴三郎」、五千円札に「津田梅子」、一万円札に「渋沢栄一」が描かれます。
千円札、五千円札は2004年に一新されましたが、一万円札は40年ぶりの新デザインとなります。
ここでは、「お札を新しくするのはなぜ?」「新紙幣はいつから?」「40年ぶりに一万円札の顔となる渋沢栄一とはどのような人物なのか?」
渋沢栄一の軌跡
渋沢栄一は、1840年に埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で、農民として生まれました。
当時の日本は鎖国状態にありましたが、1853年ペリー来航により、幕府が開国。
多くの外国人が、日本に入ってきました。
青年期、江戸に遊学中、尊王攘夷思想の影響を受け、倒幕計画を立てましたが、直前で中断し、京都へ向かったといわれています。
そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える平岡円四郎に出会い、一橋家に士官しました。
その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍に、渋沢栄一は弟の徳川昭武に随行し、万博博覧会への参加、留学するため、フランスのパリへ渡航しました。
渋沢栄一は西欧の文明に驚き、日本の近代化についても必要性を感じました。
このとき、感銘を受けたとされているのは下記です。
汽車などの交通機関
新聞の存在
五色のガス灯に飾られた都市の夜景
上下水道、電信装置の整備
すべての病人が治療を受けられる清潔な病院
西欧の金融・紙幣制度
紙幣を集めて営利事業を営む「銀行」の存在
ここ4.5年排便に苦労しているので紙のパンツを愛用しています。
フンドシも考えたのですが用足した後どうも面倒くさそうだったので止めてますが越中富山のフンドシも少し調べてみたらなんとなく季節によっては良さそうです。越中褌が本格的に普及したのは明治末期頃から。1873年(明治6年)に徴兵令が制定され、徴兵された成人男子に軍隊が官給品として支給(貸興、給興)し、使用を義務付けたことで一般化するようになった。兵役除隊後、前垂れが陰部を隠し、軽くて清々しいとの使用感や、着脱が容易で布の使用が少ない経済性もあり、若者を中心に全国に普及した。それまでの六尺褌に代わり日本人成人男性の主な下着に代わった。
どうも北陸・中部圏の名称の区別が弱いので調べてみました。
越前 福井県 昔の都京都の一番近いから
越中 富山県 真ん中
越後 新潟県 一番遠い
加賀・能登 石川県
最近 少なくなった航空自衛隊の飛行事故です。ターゲットの敵役機の任務のようでした。航空自衛隊小松基地(石川県小松市)所属のF15戦闘機1機が基地を離陸して小松沖を飛行中、レーダーから航跡が消えた。新聞によれば消息を絶った航空自衛隊小松基地のF15戦闘機に乗っていたのは、「航空自衛隊最年長パイロット」を自認する精鋭部隊のトップだった。昨年12月、北國新聞社の取材に「日本の空の平和と安全を守る」と語った飛行教導群司令の田中公司1等空佐(52)と、部下の植田竜生1等空尉(33)の安否は、事故から丸1日を経て不明のまま。
無事のベールアウト(何らかの理由で飛行不能に陥った戦闘機から緊急脱出する事。)は不明です。を祈ります。
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