柳町のルーツ
柳町の成立は貞享3年(1686)といわれています。能代の町は、最初に米代川に並行して大町、上町など東西に延びる町ができ、次いで久保田街道(今の中和通り)へ結ぶ畠町、男鹿街道へ通ずる新町の南北に走る2つの道、そしてさらにその両道をバイパス的に結ぶ柳町ができて、基本的な骨格が出来上がりました。
柳町は、西が鍛冶町、東は畠町と隣接、その間248間という長い町です。この町に明治以後2回の大変革がありました。1回目は明治45年7月の柳町大火とそれに続く柳町遊郭の新柳町への移転、2回目は平成元年都市計画事業に伴う山本組合総合病院の落合地区への移転とジャスコの進出、それに伴う町の変貌です。これによって昔からの小路の様相も大きく変わりました。
町の西端に近く北へ折れる稲荷小路は、最近の区画整理で幅の広い道路に生まれ変わりました。この道は大正期以前は、松雲堂わきから若松商店横の蛭子小路までを兵肋小路、それ以北を稲荷小路と呼んでいたものです。兵前小路と反対方面に南へ折れる小路は住吉小路あるいは善六小路といわれました。善六とは旧羽後銀行能代支店の西向かいにあった遊女屋の屋号だったといいます。
柳町の中央北側に太夫栗と称する老木があります。ここにはもと蛭子神社がありました。これに因んで、ここから若松商店に至る小路を蛭子小路と称しました。鮭網役野口平左衛門の勧請といわれますが、年代は元禄のころあるいは寛文元年(1661)といわれ不確かです。修験別当がいて、毎年収穫した栗を京都の醍醐三宝院に送るならわしだったというが、明治44年に八幡神社に合祀されて社殿はなくなりました。この蛭子神社の西隣には稲荷神社があって西側に門がありました。これが稲荷小路の名前の由来ですが、この神社も明治44年、蛭子神社とともに八幡神社に合祀、社殿はなくなりました。』
柳町のむかし(2)
住吉神社は長慶事春国和尚が元禄7年(1694)に寺内勧請し、宝永3年(1707)に八幡神社地内に社殿を建立しました。建立の由緒は銅山繁回銅雇船の航海安全のためであり、藩からさまざまな寄進を受けています。八幡神社の社地内には、右3社のほかさまざまな社殿があるが、元文3年(1738)能代浜繁盛のため建立された龍神堂は、戊辰の役では佐竹藩主の勤王か佐幕か決断のつかぬまま奥羽鎮撫副総督の沢為量卿が有志を集めて密議の場としたことで有名です。また松尾神社は延享3年(1746)酒屋連中の建立。
境内にある藤の大木は神代藤と呼ばれ、国の天然記念物でしたが昭和31年の大火で大半が焼失しました。境内には北前船の船頭の寄進した石灯籠も立っています。また高浜虚子、年尾父子の句碑は京病院の先代、京五郎先生(俳号は五紅)の建造です。
能代はガマ(河沼?)の多い町です。柳町東端に原口のガマ(のちに岸のガマともいった)がありました。今の布施さんの東側一帯です。その名の因になったのは原口医院ですが、病院ができる以前は芝居小屋があったといいます。
金勇倶樂部のハス池も有名です。
八幡神社には参道の東側に弁天池がありました。昭和30年ごろ旧八幡町の地下に下水管が埋設されると、付近一帯の地下水位がさがり、弁大池は渇水して埋立てられました。そこが渟城幼稚園のグラウンドの一部
になりました。
八幡神社の南側にあった米代座という芝居小屋がありました。間口10間、奥行15間の北向き建築で前の広場では大相撲が行われるのが例でした。この西側の窓下もガマでした。この米代座の焼失については、富町の項に記しました。』
『柳町のむかし(3) 柳町新道との交差点の東南角にあった大越薬店はジャスコの進出に伴う区画整理によって豊祥岱に引っ越しましたが、最後まで古風な店の構えを残していました。今で3代目の薬店経営とのことです。 大越薬店の1軒おいて東隣は料亭二葉、粋が看板でした。その1軒おいて東隣はアミダ湯。湯の色が赤いのが特徴的で、ここから出土したといわれる金仏が旧西福寺参道西側にありました。 兵助小路の西角は長い間、竹平(竹内平太郎)商店でした。その西隣は能代無尽㈱、その西隣が仙台屋旅館、その1軒おいて西隣が簡易食堂アバラヤで大衆的な人気を呼びました。 兵助小路の東南角は松雲堂。横丁の関根洋品店向かいの煙草屋から転じ、いまでは能代の菓子店の老舗です。 松雲堂の南向かいは羽後銀行能代支店になる前は金勇の2階建ての玉撞場でした。その前は金勇の正面入口で扇形の窓のある築地塀をめぐらしていました。 いまは店舗を広げたプラザ都の西の一角に当たりますがそこに大正の初めから戦争のころまで菊屋楽器店がありました。三味線、琴などの邦楽楽器を中心に、ハーモニカ、バイオリン、レコードや楽譜などそろえるというハイカラな店で、菊屋楽器店は能代で初めてピアノを扱った店といいます。 いまのたばたオモチャ店付近に盲目の漢方医がいました。おそらく能代で最後の漢方医でしょう。通称「仕平の旦那さま」でした。姓は大和だったと思います。 甚松という先祖の名前で呼ばれた元収入役故竹内圭三氏の家の前には釣瓶井戸があってその後新式の押し上げポンプが取り付けられましたが上水道開通後も町内の人々に愛用されていました。』
能代ブルース
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