良薬
もしかして ムッチーは苦情マニア?
この病気は主に心の寂しい人がなるようですが否定も肯定もしません。
ストレス解消には良薬であると自覚しています。名曲も癒しになっています。
« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »
もしかして ムッチーは苦情マニア?
この病気は主に心の寂しい人がなるようですが否定も肯定もしません。
ストレス解消には良薬であると自覚しています。名曲も癒しになっています。
社員や下請けスタッフに危険な作業を強いて自分は安全な東京におりながら入院した東電社長の神経は尋常じゃありません。先ほど大丈夫と政府が言っていた福島原発の半径10キロ圏内の大熊町で見つかった男性の遺体収容を警察庁が断念したと明らかにした。遺体から検出された放射線量があまりにも高く搬送できないと判断したようです。危険を感じている原子炉作業員は一日40万円出しても応募者がいないそうです。こんなカネで命がとられるなんて馬鹿馬鹿しいでしょう。政府も東電も本当に大丈夫だと言うなら着ている作業服は見せかけでないことを証明するために現場で働いたらいかがですかネ。自ら見本を占めしてもらいましょう。
福島原発が収束の見通しが立たない中で東京電力の清水正孝社長が入院した。
高血圧と極度のめまいですか?過労なんて酷い甘えじゃないですか敵前逃亡する権利はなさそうに思います。お前が死んでも誰もお線香上げたくないでしょう。
被災者の気持ちです。
秋田弁ではアバとは婆のコトを指すので理解するまで時間が必要でした。
藤里町は、能代市の北に位置しますが世界自然遺産「白神山地」の入り口になります。そこで作る「白神山地の水」がバカ売れでフル操業しても間に合わず今までの年間売上を一週間でクリアする異常ぶりで嬉しい悲鳴をあげているようです。地震の副産物は名産の秋田杉にも影響して仮設住宅から木材の需要が見込まれ値段も相当上がっているようです。東京電力も電力量が夏場にかけて供給が間に合わず東北・北海道電力に応援を求めるカタチになり能代火力発電所も当然増産態勢に入ります。建設関係も活発になるし雇用も増えるでしょうから1950年の朝鮮動乱以来の好景気の予感です。これはニワカ経済評論家ムッチーの希望を絡めた臆測ですが「災い転じて福となす」のは確実のようです。なんとか条件が揃い雰囲気が良くなってきた地元経済です。チャンスだ頑張ろう 能代!
政府と東電はなんとなく似ているような気がします。
首相は周りから顔が見えないとか無能だとか言われて国民に合わせる顔がなくなったようです。地震がなければ外国人からの献金で攻められて今頃お気楽な一兵卒であったと思いますが幸か不幸か地震で再度チャンスをもらいながらリーダーとしての働きができず前よりも信頼を落とした感じです。野党時代の首相は言葉巧みで「もう少しましな人間だと」思っていましたが立場が変わるとブラサガリ取材も対応できず止めてしまいました。勉強足りない御用記者のお陰でなんとか首の皮一枚残っている感じですが表情などは冴えず哀れに見えます。この日本丸 ツキのない人間が船頭ではどんどんと悪い方向へ流されてしまいそうです。
いまさら政権の維持などは考えていないでしょうがこの際行動力に勝る最強の一兵卒小沢さんに助けてもらったら国民感情も納得するような気がします。
同じく東電の対応ですが最前線には協力会社の人達が頑張っているようです。この騒ぎの中で非常に危険な作業を申し送りもせず怪我させるなんて下請け孫請け会社の人達を人間だとは見ていないのではないかと疑ってしまいます。東電も政府も自分たちでは何も出来ないならば意地を張らず素直に国民の声を聞くべきでしょう。なんか考えが後手後手で風評被害ばかりが先行する責任は重罪です。
東北は、まだ寒いのに九州では桜の開花が告げられました。
こんどは「たまり水」ですか?東電の技術と対応もかなり寒い気がします。こんないい加減な危機管理で政府もよく認可したものです。原子炉と地震の学者先生は給料ドロボーであることがよく分かりました。はっきり言って不要です。こんな役立たずの連中にお金かけるんだったら自衛隊や消防の最前線で頑張る英雄達に賞金をあげた方が遙かに国民の為になる気がします。また 30キロ以内にいる福島県人や家畜はエライ迷惑です。なんで菅総理が責任持って避難させきれないのでしょう。ここでは逃げ管の手は通用しません。名前ばかりの国務大臣達もカスばかりでなにも動きません。早く安全保障会議とか国会を開くべきなのに街頭募金している馬鹿議員もいるようです。頭が狂っているとしか考えられません。
朝からテレビでは地震の被災者に対する対応のマズサと無責任な原子炉情報を流した菅 政権が評論家達から袋叩きにあっています。とにかくどこが死にものぐるいなのか教えてもらいたいものです。本当に素人集団の民主党は国民の邪魔ばかりして今では国民の敵です。まあ 阪神・淡路大震災の時も村山内閣でしたので皮肉にも政治が駄目なときに地震がやって来る特性があるようです。
今日も体育館に汗を流しに行ってきました。最近顔馴染みになったランニング仲間のSさんが義兄捜しに仙台に行って運良く会えたと喜んでました。ついでに少し被災地現況を聞かせてもらいました。高速道路はボコボコで路肩も脆く危なくてあまりスピード出せなくて困ったとか?行き交う車は自衛隊の遺体運搬と水に浸かった中古車がトレーラーに載せられて何台もすれ違ったのが印象的だったと話していました。とにかく悲惨で地獄絵図を見たと繰り返すばかりです。地元の漁師さんの話しもしてくれました。「これから獲る三陸の魚」は人間の肉を食べているので5年くらい仕事にならないと相当ショッキングな話しも聞かされました。先ほど秋田県の佐竹知事は2万5千人ほど被災者を受け入れるそうです。三陸は常にツナミの危険があるためプレハブを立てる場所もなく人手も足りないそうです。
ピンチをチャンスに変えるためには一時秋田で骨休めが一番でしょう。
復興までにはまだ時間が必要です。頑張ろう 日本 !
福島原発で毎日振り回されている日本です。
これほど危険な原子炉なのに事故対策マニアルが一つもないとは呆れてます。偉い学者の話しを聞いていると状況説明ばかりで対策措置は何もありません。「止める 冷やす 閉じこめる」ことが目的のようですが白い煙や黒い煙をみて原因が不明では「それでもあんた先生か?」と、心細い限りです。これでは最初から原子炉の運用に無理があったのではと疑いたくなります。こんな恐ろしいことはありません。避難する人の気持ちを考えると早くコンクリートで固めたり埋めたほうが被害が少なくて済みそうです。信用できない政府は予想通り後手後手で会見するたびに混乱を招きお家の一大事に情けない政府で弱り目にたたり目です。現場の作業員だけには申し訳ない気持ちで頭が下がります。
昨日は湿った雪が10cmも積もりました。
なんか今年は例年より寒い気がします。被災地のほうも寒くて大変かと思います。そろそろ電話も復旧してきたので気になっていた同期の安否の確認をしました。
相手は自衛隊時代に最寄り入隊した松島基地から一緒だった山形出身の同期ですが定年後は東松島市に家を建てたと聞いています。携帯で何回かけても電源が入ってないアナウンスが返ってきます。パソコンで避難所名簿検索をしてみましたが名前が載っていません。勇気を出して亡くなった人の身元確認に入りましたが東松島市のページに入りかけたとき何となく今知らなくてもいいような気分になり止めました。だいたい結果を知りたくない場合はいままでロクなことがなかった経験を思い出しました。元気でいて欲しと願うだけです。
テレビインタビューで今何が欲しいですか?と聞くと、答えは水が100%です。
その水までが汚染されてきました。そろそろ原子炉を埋めたらどうかと思うムッチーです。
だんだん野菜も怪しくなってきました。
政府や東電は本当にウンコ野郎です。地震はともかくツナミの被害は想定外でお手上げだと国に泣きついて終わりですかどうも納得できません。
はたして自衛隊や消防関係者は想定内だったのでしょうか決してそんなことはなかったと思います。現場を任された人は想定外の仕事を命をハッテ頑張っているのに政治家が適当なことを言っています。今まで下請け孫請けばかりに危険な仕事をさせて危機に遭遇したことのない人間だから馬鹿なことを平気で口にするのでしょう。こんなウンコ政治家をぶん殴ってやりたい気持ちです。出荷停止になった野菜農家もやっていられないでしょう。食べて大丈夫だったら菅 貧乏神 内閣に全員食べてもらったらいかがですネ 早く終わらせたい内閣です。
プロ野球セ・リーグの3月中開幕にまったが掛かりました。
毎日新聞主催の選抜高校野球がオーケーなのにセリーグの黒幕である読売のナベツネが気に入らないようです。そんなに急がなくてもいいような気がします。
ナイターは開催しても鼻水がでるだけだし計画停電が終わってからでもと思います。
新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三・・・・・
この歌元気がでそうです。東北頑張れ!
菅 内閣はまるでヒロシです。
「ホウレンソウ食べても直ちに人体に支障がありません。」じゃ、なんで暫定規制値を定めワザワザ会見しているんですかネ サッパリ意味が分かりません。
本当に何考えているか危ない内閣です。
ガソリンスタンドやスーパーで列ぶのは天災だから仕方ないところもありますが「みずほ銀行」で列んだ方々はたまらないでしょう。ムッチーも第一勧銀時代から取引していますが行員が横柄で不親切だった印象が残ります。富士と合併してからも体質は変わらないようです。石原慎太郎の天罰発言が妙に引っ掛かります。
菅 総理は午前中に予定していた宮城県石巻市と福島県の視察を中止した。
天気が悪いから止めたとか?言っているがこんな適当な男が総理では不安で仕方がありません。何でも 後手後手で傷口がひろがるだけなのに周りは何やっているんですかネ 情けない話しです。
すごいなぁ 久米 宏さんが2億円寄付です。
有名人の寄付や募金が花盛りで金額を聞くたびに溜め息です。能代でも街頭なんかで女子高生が黄色い声を上げています。すでにムッチーは少額ですがネットで募金を納めているのですが買い物をするたびにスーパーの入り口通路を囲んで「お願いしまーす。」と、やられますとお金入れないと通してくれないような気がしてかないません。
なんか疲れてきましたので気分を変えて頑張りましょう。
ハァ テレビも無ェ ラジオも無ェ クルマもそれほど走って無ェ ピアノも無ェ バーも無ェ おまわり毎日ぐーるぐる ナャ 朝起ぎて 牛連れで 二時間ちょっとの散歩道 電話も無ェ ガスも無ェ バスは一日一度来る 俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ 東京へ出るだ 東京へでだなら 銭コア貯めで 東京でベコ飼うだぇが ハァ ギターも無ェ ステレオ無ェ 生まれてこのかた見だごとァ無ェ 喫茶も無ェ 集いも無ェ まったぐ若者ァ俺一人 婆さんと爺さんと 数珠を握って空拝む 薬屋無ェ 映画も無ェ たまに来るのは紙芝居 俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ 東京へ出るだ 東京へでだなら 銭コア貯めで 東京で馬車引くだぇが ハァ ディスコも無ェ のぞきも無ェ レーザディスクは何者だ? カラオケはあるけれど かける機械を見だごとァ無ェ 新聞無ェ 雑誌も無ェ たまに来るのは回覧板 信号無ェ ある訳無ェ
相変わらず燃料不足は深刻で、ガソリンスタンドには長蛇の列です。
スーパーもほとんど品物がありません。目当ての即席ラーメンもないしスルメでもカジろうと3袋だけカゴに入れレジに並びましたが行列です。廻りは山盛りで二籠を持ち買い占めの連中ばかりなのでなんとなく場違いな気がしました。なんで買いだめするのか不思議です。昔 隊員食堂で食べもしないオカズを山盛り取りながら捨てている馬鹿を見ているような気がしました。猿でも自分が食べるだけ食べたら獲り過ぎずに次に残すそうですが猿より劣る人達です。テレビでは「思いは見えないけど思いやりは誰にでも見えると」CMが流れています。少し思いやりの気持ちを表に出す練習をしたらどうダベ?。「お里が知れる」感じでした。
今日は彼岸の入り「暑さ寒さも彼岸まで」と誰が言ったか知らないが寒すぎます。
この一週間は地震とツナミ情報で明け暮れました。元自衛官ですから久しぶりに血が騒ぎ現役に戻ったようでした。自分が元気だったら予備自衛官として手を挙げて参加したい気持ちで一杯です。プログも短めにしないと節電に協力できませんので今日はこの辺で!
久しぶりに隣のおばさんが顔だした。
地震直後 仙台に嫁に行った娘から無事のメールをもらい安心していたがその後電話で何度も連絡取ったが切断中で心配していたらしい。昨日になりやっと娘から連絡がありホットしたと話していた。病院の看護士なので忙しく暇がなかったようでした。その生情報によれば災害弱者とされるお年寄りや入院患者、避難所に身を寄せる人たちが可哀想なことになっているようです。この時期としては気温も低く寒さで体力が失われたり薬が届かなかったりで折角助かった命が失われていくのがとても残念とのことです。今我々のできることは募金と節電くらいですが頑張って協力したいと思います。
あまり文句ばかり言って恐縮ですが東京電力の記者会見を見てると腹が立ってきます。普段自分達だけが使っている職業専門用語で説明するから国民はチンプンカンプンです。何デシベルなんかどうでもいいことです。どうせ危険があるから会見してるんだから「すみません大変馬鹿な事」をしましたので待避して下さいで十分でしょう。くだらない言い訳会見は止めて時間があったら福島県民に油でも運んでやったらどうですか!また 会見途中で同僚からの突っ込みが有り「何やってんだ」と怒鳴りたくなります。勝手に甘い運用基準を作り「ツナミは想定外」で手に負えないから自衛隊や警察に危険作業をお願いするとは根性が狂っているとしか思えません。放射線を被るのは誰なんですか?今までだってどうせ辛い作業は下請けの会社にやらせて自分達は手を汚さない会社だと思いますがこの事件で倒産は確実だと思いますが いつまで持つかな?
福島原発トラブルも風雲急を告げる状態です。
朝の外国為市場で円相場が急騰、一時、1ドル=76円台をつけました。勝負事は相手の弱い所を攻めろが鉄則ですからマネーゲームにおいても容赦なく攻撃してきます。これからの日本は正念場でしょう。いくら頭のいい学者でも国民を指導する国務大臣でもクソの役に立たない感じです。今まで我欲のためのみに生きてきた人間達でしょうから正しい判断は無理です。実際 福島の被災者には政府や東京電力から何も情報が届いていないようです。逆に政府が危険を煽るばかりで風評被害が広がり支援物資も届かず苦しんでいるようです。政府は今まで平気で国民を騙してきた経緯からしてこれからも期待は無理でしょう。客観的に見てこの一大事に対処する能力や責任感が不足しています。その点 平和や愛国心教育を受けている自衛隊員は国民の為に働くことは生き甲斐になっていますので銭カネ関係なく頑張ってくれるし信頼できます。私腹ばかり増やすことばかりに熱心な指導者とは人間の品格やスケールが違います。役に立たないリーダーは早く去れ!でしょう。
福島の原発が大変だ!
はじめは半径5キロ そして10キロ 20キロ 今ではすでに30キロで屋内待避になりました。原発に対しての政府と東京電力の対応が生ぬるいし遅すぎる。小出しにせずに初めから大きなものを想定して正直に話していたら怒りも半分ぐらいで済んだでしょう。原子力は安全安心と言って来たが半径30キロ圏内の方のどこが安全安心なのか聞きたいし身体がどこまでが安心なのかそれも聞きたい。会見の都度どんどん不安を煽っているのは馬鹿政府や東京電力のアホどものようです。3月で終わっていたハズの政権に任せるのはとても危険が危ない。はたして明日は何キロに伸びてくるのか不安一杯だ!
比較的被害が少なかった秋田県ですが東北電力のほうも計画停電をするとテレビに流れましたので早速 乾電池を買いに行きましたら電気屋さんもスーパーにも在庫がなくお店の入り口に「乾電池在庫なしの看板」が有りました。被災後の停電から復旧したばかりですから計画停電まで少し時間が欲しい気がします。しかし 被災地の人に較べたら恵まれていますので文句は止めます。先ほどの天気予報では今晩から雪予想です。被災者は疲れ切っているでしょうから気の毒です。
能代地方は廃校とか空き家がたくさん有りますのである程度受け入れが可能です思い切って一時避難されたらいかがかと思います。政府のほうも一考の必要があるでしょう。善は急げです。
福島の原発は自宅待機になり深刻な事態になったようです。
枝野長官の話しは全然何しゃべっているのか意味不明です。昨日からこの人の会見は論点がズレておりこのままでは日本の危機が増幅するばかりです。適任者に早く交代した方が国民のためでしょう。また 新聞記者も似たりよったりで質問がタイムリーを欠いたり少しズレを感じます。国民との温度差を感じさせるものであっては安心できません。なんで気がつかないのか変です。
先ほど地震速報として大きな地震が起きるとアナウンスがあったので慌て家の外に出たが何の揺れも来なかった。ガセネタに踊らされた感じです。アタマにきた視聴者が相当抗議したのか誤りのアナウンスがありました。これから こんなことが日常茶飯事のように出てきます。そして次から次と問題が生じ対応できないと人様に大変迷惑かけることになります。今のところ政府と東京電力が集中砲火を浴びていますがおそらく多くの会社がアタマを抱える事案もくるでしょう。ムッチーは自衛隊OBとして危機管理や災害派遣の勉強をさせてもらった経験からしてトラブルを未然に防止するためには人への配慮が最大のポイントになると思っています。なんとか負けないで助け合ってしのぎましょう。
福島の原発や計画停電の会見を昨日から見ていますが東京電力という会社も人材不足のようでかなりデタラメな会社に見えます。停電を計画しながら少し余裕が有りそうだから見送りますでは呆れてしまいます。踊らされて協力体制を敷いた企業はいい迷惑でしょう。パニックを誘発するような東電はいいかげんな会社であることがよく解りました。この大切な時期に政府の若い大臣や会社広報が国民にいろいろ説明してくれてますが対応に経験不足を露呈して会見するたびに混乱や不安を増幅させてくれるのでありがた迷惑です。もどかしさでストレスが溜まってしまいます。もう少し準備を万全にしてベテランから知恵を拝借したらどうでしょうか?少し勉強がたりませんなあ。
余震が来るたびに身体が自然に外を見て反応しています。
阪神・淡路大震災も地獄絵図を見るようで耐え難かったが今回の東北・関東巨大地震のほうが段違いのような気がしてます。マッチ箱のように流れていく家を見ながら「つなみ」というバケモノは悪魔を見たようです。なんとなく力が抜けていくような気がして嫌な感じです。また 福島の原子炉も恐怖です。要領の得ない広報担当者の話しを聞いているとよけい危険を感じてしまいます。東京電力も少し国民に解りやすい説明が必要でしょう聞くに堪えません。これでは頭の悪い政治家や融通の利かない役人とダブリ信用なりません。文句はこのぐらいにしておきますがこれからは国民が一致団結しこの国難をやっつけないといけません。今何をすべきか考えて行動したいものです。
なんとか無事です。
大地震と津波で日本中が大変な事になりました。秋田県は他の県と比べれば被害は少なかったようですが被災された方がたくさんおられます。東北地方はほぼ全域が丸一日停電だったようで先ほどやっと電気が復旧したところです。昨日の夜は雪が降り寒いは腹減ったはでワヤでした。朝まで車の中で暖をとりながら情報を収集していました。信じられないくらいの悲劇を見てテレビを見ながら涙が出てきました。その中で残念なのは携帯電話が不通で安否確認ができない事です。いつも災害になると使いものにならない電話で腹立たしくなります。こんな大切なときにバカヤローと思うのはムッチーだけではないでしょぅ。 こんな電話会社のシステムは政府が認可しないようにしたらどうでしょうかほとんど意味がありません。自衛隊ではホットラインがありましたが一般家庭にもこんな場合は重要です。情報収集で一番肝心なのが抜けているいるんじゃないですかネ ホント 疲れますワ!
</p>
45年1月には人並みに1等兵に昇任できました。
ほとんど仕事もできず実務訓練の毎日でしたが自衛隊は養成してくれる時間と余裕があり夜遊びばかりしていてもまとめて面倒みてもらった感じです。こんな生活は長く続きません。いくら若くても限界があり徹夜麻雀ばかりしていると仕事中は眠くなり先輩から小言をもらう事が多くなり居場所がなくなってきました。麻雀のほうはほとんどプロレベルまで上がりましたが身から出たサビでしょうか上司から配置換えを囁かれ始めました。当時は退職しても行く当てもなかったのでなるようになるしかなく「まな板の鯉」でした。そのころ運が悪く昇任規則の改正で上等兵に要する期間が3ヶ月のび勤務成績の悪い?ムッチーは同期から遅れをとりお茶を引きました。このとき転勤要員だと直感しました。人生捨てる神があれば拾う神もありで基地野球部の先輩が管制群で勉強しないかと誘われました。管制業務は当時 「地上の華」と言われパイロットと同じエリート集団であり司令部勤務よりも現場が面白そうだったので「はい」と返事しました。なんとなく人生の方向が見えた瞬間でした。
久しぶりの森岳温泉です。
農閑期なのでジジババばかりですがいかにも気持ちよさそうにノンビリしています。とても優雅な人生のようで長生きしそうな雰囲気です。帰り道途中にテレトラツクで岩手水沢競馬の場外発売所があり車がたくさん駐車しているのでそそられて勝負する気になったが財布が軽くタネ銭の持ち合わせがなく残念ながら自重しました。最近は昔ほど血が騒がなくなったようです。しばらく国道7号線を走りながら同級生○○君の会社が見えたのでちょっとお茶でも飲んでいくかと思い寄ってみたらなんと○○鉄工の看板はあったが事務所には人の気配がなくビックリしました。これは一大事と思い早速事情を聞くため近くで勤務する三共運輸の○○くんを訪ねたらその○○君は去年の6月に定年退職したと聞いて またまたビックリです。携帯電話は登録していたので話しを簡単に聞かせてもらったが原因はやっぱり不景気のようでした。残念ながら3月いっぱいで○○鉄工は閉めると聞きとてもやりきれない気持ちになりました。早速 有志で激励してやるべーとなりましたがまだ細部は決まっていません。
めまぐるしく忙しかった昭和44年でしたが麻雀だけでなく草野球もやりました。
ほとんどベンチ要員でしたが熱心に参加したことで先輩からも可愛がられ日曜下宿に入れてもらったりいろいろ面倒みてもらいました。そのころから日本人クラブとかゲート前のマスター達とは親しくなり飲み屋の息子連れてキャンプに連れて行ったり町内会の行事に代理で参加したりしたのでカネがなくてもフリーパスで他の客のお酒を呑んでいました。本当に寝るのも惜しんで遊んだので楽しい思い出になりました。
1969年から25年を差し引くと昭和44年になります。
だいたい25年がポイントになります。その昭和44年は激動の年でムッチー人生の始まりの年でありました。3月から秋田 松島 熊谷 芦屋基地と住民票を持ち9月まで全国歩き続け入間基地で落ち着きました。最初の上司は東京大学出身の中佐で驚きました。人事部長は昔からの爆撃機乗りで豪快な大佐でした。碁の好きな人で昼休みは毎日楽しんでいましたが負け癖が悪く負けると碁盤をひっくり返しましたので後片づけはいつのまにかムッチーの仕事になりました。酒癖も海老蔵クラスでした。それでも普段は優しい人で輸送機に一回のせてもらった記憶が残っています。仕事もできないし外出もできなかったので楽しみは日本人クラブでの麻雀でした。40男の遊び人とは格が違い負けてばかりでした。しかし 通うたびに馴染みも増えたて米軍の施設に立ち入ることができたり酒や煙草も手に入るようになり横田基地なんかでは豪華な焼き肉ランチまで食べることができました。友人のほとんどが英語がペラペラでしたので英語を話せないのは肩身の狭いことでしたので会話ぐらい勉強しないといけないかなあと考えていました。相変わらず土日は外出はできなかったので外出目的で神田駿河台の英語の学校アテネフランセに通学しました。初級コースに空きがなく中級でもいいやと思いましたが流石についていけません。定期代がもったいなかったので後楽園球場でナイター観戦の毎日になりましたが今思えば無駄が多い青春だったようです。
今日の地震は全然気が付きませんでした。
ちょうど体育館で歩いていましたが周りは卓球をやって騒がしかったこともありラッキーでした。温泉に入ろうとしたら受付嬢から「揺れましたネ」と言われ「何の話?」と聞き返すほどですから我ながら加齢とともにテンネンに近くなってきたようです。能代の震度は4でした。
昔から映画が好きでよく出かけたものです。
特に任侠映画は好きで高倉健さんの大ファンでした。ヤクザ映画を見たアトは気分が高揚してなんか自分が強くなったような錯覚がありとても楽しかった。むかし能代にも銭屋組と言う組織があったが田舎では商売にならないのか都会に行ったらしい。幼なじみでヤンチャだった仲間がお世話になっていると聞いていたが生きているかどうか知らない。どこかの山口組で頑張っているかも知れないが任侠映画で急に思い出しました。
前原外務大臣が万事休した。
「自分がして欲しいと思うことを、他人にも施しなさい。」と 良く聞きますが今回は小沢さんを口撃したツケが自分に帰ってきたのでしょう。どうやら「自分がされたくないことは、人にもしない」精神がよさそうです。
ザーという激しい雨音と爆撃のようなカミナリで目が覚めました。時計を見たら午前4時です。寝てからまだ2時間も経ってません。春の天気と政治家の違法献金にはついていけません。前原外相が外国人から献金を受けていた問題が出てきました。罪が確定すれば公民権停止で閣僚どころか国会議員の資格がなくなる大事件のようです。菅総理は一兵卒の小沢さんだけに対して“政治とカネの不条理を正す”としているが閣僚の方の不条理を正す方が先決ではないのケ?
まぁ 次から次とタケノコのように不祥事がでてくるものです。人の上に立つ人はもう少し信頼される人でないといけない気がします。国民としては情けなか?
昔の大学入試では裏口入学というのが流行ったが時代はインターネットに変わったようです。19才の少年ですか? 悪事も抜きんでているのでこれから何やっても飯食っていけるでしょう。出すぎたクギは打たれないと相場が決まっていますからこの少年の将来はあまり悲観していません。これからはパソコンで生きていくでしょうが世の中に役立つソフトでも作ってくれたらチャラにしたいと思います。
3ヶ月の新隊員教育もアッという間に終わりになりました。
卒業1週間前に特技職を中隊長から直接辞令交付があり「2等空士 ○○○○は 第3術科学校 初級人事員課程に入校を命ずる」で福岡県遠賀郡の芦屋基地に行くことになりました。当時は新幹線がなく夜行列車の「急行霧島?」で24時間くらい汽車に乗ってケツが痛かった記憶があります。人生で初めての九州も違和感がなく秋田と暮らしも変わらず日本はどこで暮らしても同じだなあと思いました。
あの時 板垣退助の100円札は東北 北海道と九州がまだ使っていたのでそう思ったのかも知れません。この頃は体力より勉強が大切でこれから自分は人事を職業として生きる覚悟がありましたが法律用語ばかりでてくるので理解するのに時間ばかりかかり大変でした。とんでもない仕事を選んだと泣きが入りましたが何とかなるさと自分を諭しました。この世に楽な仕事なんかひとつもありません。
なんだかんだ文句いいながら2ヶ月の術科課程もアッという間に過ぎ 卒業1週間前に任地が決まりました。学生隊長から直接辞令交付され「2等空士 ○○○○は 中部航空方面隊司令部 人事部 人事班」で埼玉県入間基地に決定されました。ここは米軍のジョンソン基地と呼ばれていました。ちょうどベトナム戦争が真っ盛りで入間から横田基地まで定期バスで兵隊が通勤しており秋田の田舎から出てきたムッチーにはどう見ても外国でした。おまけに西武池袋線が基地の中を線路が走っていて驚きの連続でした。昭和44年は人生の大きな節目になりとても希望溢れるスタートでした。 いつかつづく
仙台からは夜行列車で上野駅に着きましたが常磐線か東北本線のどちらかに乗ったのですがしっかり忘れました。上野から高崎線で篭原駅行きの電車に乗るのに相当時間がありましたので駅でブラブラしていましたが航空自衛隊の制服は駅員によく似ているらしくお客さんからよく間違いられ苦笑しました。当時は秋田ナマリがひどく標準語が話せませんので逃げ回っていました。それでも引率教官のお陰でなんとか無事に熊谷基地に着き新隊員教育が始まりました。朝から晩まで駆け足 教練 と体力勝負でしたので大変でした。まだ洗濯機のない時代ですので洗濯板でゴシゴシは堪えました。休みはいつも洗濯ばかりしていました。
また 熊谷基地はもともと米軍の施設だったのでトイレは洋式の便器で爆弾落とすのも遮るドアがありませんから慣れるのに時間がかかりました。言葉も面白く煙缶(灰皿)書簡文(手紙)物干場(乾燥室)とかいって軍隊用語は複雑でした。しかし この3ヶ月が人生における貴重な礎になったような気がしてます。つづく
巷では、卒業シーズンです。
この時期になれば毎年思い出すのが人生の旅立ちです。そして自分探しの旅の始まりです。振り返れば42年前 奥羽本線 東能代駅で近所の同級生や麻雀仲間が駆けつけてくれまして胴上げをしてくれました。感激もありましたが希望と不安が入れ乱れ複雑な気持だったことを覚えています。当時はまだ集団就職列車が残っていたので自分では集団就職だったと思っています。とりあえず仙台にある松島基地に最寄り入隊でしたので仙石線の矢本町駅に向かいました。すでに幌かけた大型トラックが待っていてまるで家畜と同じ扱いで乱暴に積み込まれましたのでこの先どうなるのかとても不安でした。それでも隊員食堂では歓迎の看板「入隊おめでとう」がありました。昼食はトンカツで美味しくとても感動しました。こんなメシ毎日食えるのかと思えば元気がでてきたことを覚えています。俸給が前払いだったので直ぐ小遣いも貰いました。また制服等の支給も有りましたが寸法は自分の身体で合わせろと言われまして、ほとんど大きめで全員ブカブカで笑った事を覚えています。一週間ほど松島基地の研修をしました。その後 夜行列車で埼玉県の熊谷基地に移動しました。このつづきは小出しに書きます。
最近のコメント