会社の入社式の状況がテレビ゛流れていた。どこの会社も厳しい厳しいと口を揃えている様子だった。ムッチーはこの季節になると昔の集団就職を思い出す。吉幾三の唄っている曲も田舎者にはなかなか勉強になる。
敗戦後の日本が復興し、高度経済成長となるのを支えたのは、中卒の集団就職者であった。子供は3~5人いるのが当り前の時代、高校へ進学できる家庭は珍しく、大半はは中学を卒業すれば就職するのが当然のように思っていたし、また、親にとっても早く働いて、貧しい家計を助けて欲しい時代だったが、慢性的人手不足の都市部と違い、経済格差の大きい農漁村は就職口はほとんどなかった。
昭和29年4月5日、就職専用列車が青森駅から上野駅へ向けて発車した。乗客は、中学を卒業したばかりの少年少女。知らない土地での不安と、少しばかりの希望の複雑な思いで列車に乗込んだ。以来、東北各地から上野駅へ、西日本方面から品川駅へ、毎年多くの若者が東京の土を踏んだ。雇用者側から、金の卵と呼ばれた中学卒業者のピークは、高度経済成長と同じく昭和35年から45年までで、高校進学率が90%を越えた45年に、就職列車は廃止された。 「金の卵」と呼ばれた彼等は、安い賃金で真面目に働く貴重な労働力であったが、彼らにとって、都会の生活は甘くはなかった。
はじめの約束の定時制高校どころか、給料は日給月給、残業手当や有給休暇などあるはずもない。就職先はほとんど中小零細の町工場や商店などで、当然、住込みで、給料は3,000円か4,000円。当時の高卒平均初任給11,560円、大卒17,179円とくらべ、いかに安いかがわかるだらう。しかも労働条件は過酷で、1日労働時間は10時間余。休みは月に2回あればいいほうで、ほとんど無いところもあった。住込みだから、休みが取りにくい雰囲気だったのだ。 そして、地方なまりをバカにされ、なれない仕事と知らない街での寂しさの中で頑張った。少ない給料の中から半分を田舎に仕送りをする、そしてまた、夜遅くまで残業の毎日だった。数少ない休みの日は、いつも、入れ替えのない映画館で一日過ごしたりしていた。帰るのは雑魚寝の寮で、そこさえも、告げ口やいじめ、けんかが絶えず、みんな孤独だった。田舎に帰りたくとも、幼い弟も妹もいたから帰れない。夢など持てるはずもない毎日だった。 もちろん中には、一人前になればのれん分けで、店を持たしてくれるところもあった。だがそれは、口約束が多く、実際にはきわめて珍しいことであったはずである。親の援助や、借り入れ資金で運良く独立開店できても、スーパーマーケットチェーン店が出来始めて、零細店の生き残りの厳しい時代となっていった。町工場の工員たちも同じことで、機械一台買って独立するのも難しいことだった。いずれも、夢をあきらめ、大工場の歯車の一員として、転職するものが多かったのだ。そして、そこからも落ちこぼれ転落の道を転げ落ちていった若者もいたのである。 彼らの思い出話は、実はわたし自身の住込み奉公体験と重なり、証明できることなのである。 こうした中で、自分たちの居場所を見つけだした彼らは、思い切ってそこに足を向けた。そこには、田舎出の工員、店員、見習い職人、お手伝いさんらが語り合っていた。孤独、東北なまり、家の貧しさ、誰もが「帰りたくても帰れない」同士、「おれだけがつらいんじゃない」ことを知り、「おれも頑張って生きよう」と思い直した。そして、、しっかりと地に根をはり始め、裸一貫から独立開業し、一国一城の主になった仲間もいる。そこは、働く仲間達のサークル「若い根っこの会」であった。
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