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2007年1月18日 (木)

上野駅

Images_4井沢八郎(69才)が食道ガンで☆になった。青森の弘前市出身で昔から親しみがあった。名曲の「ああ上野駅」(ポチッ)には書ききれないほどの思い出がある。奥羽本線の夜行列車で「急行津軽2号」をよく乗ったが上野駅(18番線ホーム)に到着するころ必ずこの歌が頭に浮かんだ。私だけじゃなく東北地方出身者には特別の歌ではないかと思う、デビュー当時は北島三郎といい勝負でどちらが出世するか楽しみな歌手だった。石川啄木も「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人混みの中に そを聴きにゆく」と詠んだように上野駅は人々の郷愁をさそう場所であった。この歌は人生の応援歌でもあり時代の生き証人かもしれない。15年に歌碑ができた。今度上京したら見たい。

引用だが気に入った「泣ける文章を抜粋した。」(新潟日報)

 1960年代に集団就職列車に乗って上京した若者の応援歌「ああ上野駅」の歌碑が建てられた。場所はもちろんJRの上野駅前。多くの人が歌碑の前で目頭を熱くすることだろう

▼中学卒業と同時に首都圏に就職した「金の卵」たちが、寂しいときやつらいときに向かったのが上野駅だった。屋根に新潟の雪を乗せた列車を見つけては、涙をぬぐう。64年に「ああ上野駅」をヒットさせた歌手の井沢八郎さんに、上野駅長が電話を掛けたことがあった

▼「故郷恋しさに上野駅で列車を眺めている集団就職の子どもたちに『ああ上野駅』を聞かせている。一度来てほしい」。「行きましたよ。一緒に歌いました」。井沢さんが、歌手を目指して乗った夜行列車から降り立った駅も上野だった

▼歌手の森進一さんは中学を卒業すると、鹿児島から集団就職で大阪に出た。数年後に視聴者参加番組に出演したのが縁となり、「女のためいき」でデビューすることになった。「女が泣くように歌え」といわれても、十代の森さんには見当もつかない

▼やむなく、貧しい暮らしの中で聞いた母のおえつを頭に「アッアッ」と歌った声が、人々の心を揺さぶったのだという。「人生の並木路」の録音では「泣くな妹よ 妹よ泣くな」で涙があふれた。集団就職で苦労している兄の森さんのためにと、小学校五年生の妹が近所の手伝いでためた二千円を送ってくれたことを思い出したのだ

▼集団就職の若者に共通する思いが、井沢さんや森さんの歌に命を吹き込んでいたのだろう。貧しいがゆえに、故郷や家族と深いきずなで結ばれていた。そんな時代の歌声が心に染みる。

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